城官寺(平塚山 安楽院 ひらつかさん)
注目スコア
97
宗派
城官寺(じょうかんじ)は、東京都北区上中里1丁目にある真言宗豊山派の寺院。
当寺院は昔筑紫(現在の福岡県)の安楽寺の僧侶が諸国巡礼の折、当寺に宿泊したことに始まる。その際に阿弥陀如来像を置き安楽院と称した寺院を創建した。当初はその関係から浄土宗の寺であった。
その後、江戸時代になり、山川貞久(城官)という江戸幕府に仕えていた鍼灸師がいた。ある時、三代将軍徳川家光が病で倒れた時、山川貞久は、豊島郡の平塚明神(現在城官寺に隣接してある平塚神社)に治癒を日夜祈っていた。家光の病気は治癒し、山川貞久は私財を投じて平塚明神を再建、さらに寛永11年(1634年)には平塚神社の別当して、当寺院を再興し真言宗の寺院とした。
寛永17年(1640年)徳川家光が鷹狩りの際、当地を訪問。その際に平塚神社を見て、その豪華さに当神社は誰が造営したのかと村長に尋ねたところ、家光が病床の際に山川貞久が平塚神社に日々祈願し、治癒した事に感謝してここまでにしたと言ったと言われている。
それを聞いた家光は感激し山川貞久を呼び出して、平塚神社と当寺院の社領として50石、さらに山川貞久に知行地として200石を与え、寺号を平塚山城官寺安楽院とするように命じたとされている。
それ以来、格式ある寺院として知られるようになった。明治時代になり、神仏分離令により平塚神社と切り離され、現在に至っている。
当寺院には、江戸幕府に奥医師として仕えていた多紀桂山一族の墓(東京都指定文化財(史跡)。1936年指定)及び山川貞久一族の墓がある。(北区有形文化財)
豊島八十八ヶ所霊場47番札所
上野王子駒込辺三十三ヶ所
観音霊場6番札所
当寺院は昔筑紫(現在の福岡県)の安楽寺の僧侶が諸国巡礼の折、当寺に宿泊したことに始まる。その際に阿弥陀如来像を置き安楽院と称した寺院を創建した。当初はその関係から浄土宗の寺であった。
その後、江戸時代になり、山川貞久(城官)という江戸幕府に仕えていた鍼灸師がいた。ある時、三代将軍徳川家光が病で倒れた時、山川貞久は、豊島郡の平塚明神(現在城官寺に隣接してある平塚神社)に治癒を日夜祈っていた。家光の病気は治癒し、山川貞久は私財を投じて平塚明神を再建、さらに寛永11年(1634年)には平塚神社の別当して、当寺院を再興し真言宗の寺院とした。
寛永17年(1640年)徳川家光が鷹狩りの際、当地を訪問。その際に平塚神社を見て、その豪華さに当神社は誰が造営したのかと村長に尋ねたところ、家光が病床の際に山川貞久が平塚神社に日々祈願し、治癒した事に感謝してここまでにしたと言ったと言われている。
それを聞いた家光は感激し山川貞久を呼び出して、平塚神社と当寺院の社領として50石、さらに山川貞久に知行地として200石を与え、寺号を平塚山城官寺安楽院とするように命じたとされている。
それ以来、格式ある寺院として知られるようになった。明治時代になり、神仏分離令により平塚神社と切り離され、現在に至っている。
当寺院には、江戸幕府に奥医師として仕えていた多紀桂山一族の墓(東京都指定文化財(史跡)。1936年指定)及び山川貞久一族の墓がある。(北区有形文化財)
豊島八十八ヶ所霊場47番札所
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ひと月以上間が空いてしまいましたが、御府内八十八ヶ所霊場巡りの続きです。北区・豊島区近辺にあるお寺を巡りました。最初にお伺いしたのは、北区上中里にある城官寺さんです。城官寺さんは、昔、筑紫の安楽寺の僧侶が諸国巡礼の途中に宿泊し、
城官寺の次にお伺いしたのは無量寺さんで 無量寺の御府内八十八ヶ所59番御朱印 佛寶山 西光院 無量寺通 称派御本尊:不動明王所在地:東京都北区西ケ原1-34-8札所等:御府内八十八ヶ所第59番江戸六阿弥陀3番201
城官寺でご朱印を拝受した後、さらに平塚には江戸幕府より寺領8石5斗余の御朱印状を拝領長福寺という寺名であったた記録も残されているそうです。(北区教育委員会掲示)---------------------------
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