川之江八幡神社(川之江八幡宮)
注目スコア
8
位置
川之江八幡神社は愛媛県四国中央市川之江町2567の神社。
社伝によれば、推古天皇6年(598)宇佐八幡宮より御分霊を勧請し、切山(現在の四国中央市金生町山田井の東部、平家落人伝説で知られる)に祀った。康平8年(1064)には源頼義が伊予国内八ヶ所の八幡宮の一つとして、現在の川之江町塩谷の畠山に遷宮したという。
中世においても領主の崇敬篤く、川之江城主・河上但馬守安勝は畑300石を寄進した。しかし、天正10年(1582)長宗我部元親と河上但馬守の合戦のために焼失した。寛永3年(1626)再興されるが、正保3年(1646)「正八幡宮」の門額だけを残して灰燼に帰し、旧記等も失われた。
慶安2年(1649)大庄屋・宮家七右衛門家経が中心となり、亀嶋の現社地に遷座する。嘉永4年(1851)3度目の火災があり随神門を除いて社殿等焼失、安政5年(1858)再興される。
明治になり、神仏分離のため旧別当の宝積寺が廃寺となる。明治5年(1872)郷社に列格、同13年(1880)県社に昇格。昭和23年(1948)には秋祭りに奉納する太鼓台の喧嘩のため金生地区が氏子から分離、当社の御分霊を旧荒神宮に祀り、金生八幡宮とした。
秋祭には豪華な太鼓台が市中を練る。
社伝によれば、推古天皇6年(598)宇佐八幡宮より御分霊を勧請し、切山(現在の四国中央市金生町山田井の東部、平家落人伝説で知られる)に祀った。康平8年(1064)には源頼義が伊予国内八ヶ所の八幡宮の一つとして、現在の川之江町塩谷の畠山に遷宮したという。
中世においても領主の崇敬篤く、川之江城主・河上但馬守安勝は畑300石を寄進した。しかし、天正10年(1582)長宗我部元親と河上但馬守の合戦のために焼失した。寛永3年(1626)再興されるが、正保3年(1646)「正八幡宮」の門額だけを残して灰燼に帰し、旧記等も失われた。
慶安2年(1649)大庄屋・宮家七右衛門家経が中心となり、亀嶋の現社地に遷座する。嘉永4年(1851)3度目の火災があり随神門を除いて社殿等焼失、安政5年(1858)再興される。
明治になり、神仏分離のため旧別当の宝積寺が廃寺となる。明治5年(1872)郷社に列格、同13年(1880)県社に昇格。昭和23年(1948)には秋祭りに奉納する太鼓台の喧嘩のため金生地区が氏子から分離、当社の御分霊を旧荒神宮に祀り、金生八幡宮とした。
秋祭には豪華な太鼓台が市中を練る。
地図表示位置は正確ではない場合があります
川之江八幡神社 御朱印画像
四国中央市で人気の神社
川之江八幡神社 参拝ブログ
関連ブログは自動収集しています。必ずしも正確とは限りません。