高部屋神社(八幡神社 糟屋八幡)
注目スコア
62
創建
不詳
位置
高部屋神社(たかべやじんじゃ)は神奈川県伊勢原市下糟屋にある神社。『延喜式神名帳』に小社と記載されている相模国の延喜式内社十三社の内の一社とされるが、後述のように論社も存在する。旧社格は村社。
かつてはこの神社と同名の大住郡高部屋村の村社であり、またこの地区を含む糟屋庄の総鎮守としても崇敬された。
創建年代は不詳。「延喜式神名帳」に相模国13座の内の1社と記載されており、大住郡127ヶ村の惣鎮守であった。ただし、伊勢原市高森にある高森神社も、式内社「高部屋神社」の論社の一つとされており、この神社が明治の神仏分離令以前は「高部屋神社」という呼び名であったと伝えられていることに加え、棟木や鳥居脇の石碑(裏側)に「高部屋神社」という銘文が残されていることもその理由として挙げられる。
鎌倉時代に、糟屋庄の地頭であった源頼朝の家人「糟屋藤太左兵衛尉有季」が、高部屋神社を守護神として新たな社殿を造営した。至徳3年(1386年)12月に河内守宗国によって造られ、平秀憲が寄進した銅鐘は神奈川県指定重要文化財に指定されている。天文20年(1551年)に地頭の渡辺石見守が社殿を再興した。天正19年(1591年)11月に徳川家康より社領10石の御朱印を賜る。江戸時代中期頃まで別名「糟屋八幡宮」と呼ばれた。
また、正保4年(1647年)に本殿を再建されるが、関東大震災で倒壊し、昭和4年(1929年)に柱・彫刻・正面扉等をそのまま使用し再建される。慶応元年(1865年)には拝殿を再建。
神事に用いられる鎌倉時代以降の雅楽面三面の古面や、京都府宇治市にある黄檗山萬福寺7世・悦山道宗(中国福建省泉州府晋江県からの渡来僧)が元禄初期に揮毫した「八幡宮」の扁額がある。本殿前の狛犬を寄進した行按・行白も黄檗宗の僧で、一時期、別当神宮寺とともに黄檗宗との関係が深かったと思われる。
現在は伊勢原大神宮が管理を兼務しており、朱印等はそちらでもらうことができる。
かつてはこの神社と同名の大住郡高部屋村の村社であり、またこの地区を含む糟屋庄の総鎮守としても崇敬された。
創建年代は不詳。「延喜式神名帳」に相模国13座の内の1社と記載されており、大住郡127ヶ村の惣鎮守であった。ただし、伊勢原市高森にある高森神社も、式内社「高部屋神社」の論社の一つとされており、この神社が明治の神仏分離令以前は「高部屋神社」という呼び名であったと伝えられていることに加え、棟木や鳥居脇の石碑(裏側)に「高部屋神社」という銘文が残されていることもその理由として挙げられる。
鎌倉時代に、糟屋庄の地頭であった源頼朝の家人「糟屋藤太左兵衛尉有季」が、高部屋神社を守護神として新たな社殿を造営した。至徳3年(1386年)12月に河内守宗国によって造られ、平秀憲が寄進した銅鐘は神奈川県指定重要文化財に指定されている。天文20年(1551年)に地頭の渡辺石見守が社殿を再興した。天正19年(1591年)11月に徳川家康より社領10石の御朱印を賜る。江戸時代中期頃まで別名「糟屋八幡宮」と呼ばれた。
また、正保4年(1647年)に本殿を再建されるが、関東大震災で倒壊し、昭和4年(1929年)に柱・彫刻・正面扉等をそのまま使用し再建される。慶応元年(1865年)には拝殿を再建。
神事に用いられる鎌倉時代以降の雅楽面三面の古面や、京都府宇治市にある黄檗山萬福寺7世・悦山道宗(中国福建省泉州府晋江県からの渡来僧)が元禄初期に揮毫した「八幡宮」の扁額がある。本殿前の狛犬を寄進した行按・行白も黄檗宗の僧で、一時期、別当神宮寺とともに黄檗宗との関係が深かったと思われる。
現在は伊勢原大神宮が管理を兼務しており、朱印等はそちらでもらうことができる。
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伊勢原市高森にある、高森神社さんです。以前紹介しました、高部屋神社さんと供に、延喜式内論社高部屋神社とされていした 笑奥様が、入り口で待っておられました御朱印代300円うーん。論社って言われてるけど、高部屋神社さん
ようございます 江戸散歩です 糟屋宿最大の鎮守である、高部屋神社にやってきました 高部屋神社は、伊9年(1591)には徳川家康から社領10石の御朱印状を拝領しています。明治6年村社に、大正6年郷社に列格し
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