宥勝寺(西光山 ゆうしょうじ)
注目スコア
45
宗派
宥勝寺は埼玉県本庄市栗崎155の真言宗智山派寺院。
本尊:不動明王
真言:のうまくさまんだばざらだんせんだまかろしゃだそわたやうんたらたかんまん
御詠歌:のぼりきて ねがうこころは みほとけの こえかともきく まつにふくかぜ
寺伝によると建仁2年(1202)有荘氏(後の本庄氏)により開創された。始め有道宿弥武惟行五世の孫児玉党旗頭、有荘太郎家長の嫡子小太郎頼家が寿永3年(1184)一ノ谷の合戦で戦死した為、その妻が菩提を弔うため京より法印良運和尚を迎えて一寺を建立、有荘寺と号し自らも得度して妙清禅尼となった。これより前、有道惟行は沙門空海巡礼の地、浅見山に一寺を建て阿弥陀如来を安置し西光寺と称していた。延元2年(1338)新田、足利の兵火で焼失、天文6年(1538)北条、上杉の戦国兵乱の時無住となった。荒廃するを惜しみ紀州根来寺より僧頼暁来り、天文24年(1555)西光、有荘の両寺を合併して一寺をなし、西光山無量寿院宥勝寺と改称された。
爾来、末寺数十ヶ寺を有する地方有数の名刹となり、慶安元年(1648)良弁僧都の時、徳川家より御朱印拾石を賜り、寛永3年(1791)御室御所仁和寺直末となり菊花紋章の使用を許されている。現在の本堂は嘉永元年(1848)宥応代に再建されたもの。本尊不動明王は興教大師作と伝えられる秘仏。また西光寺の本尊阿弥陀如来は鎌倉期の作。
山門前に「北向延命地蔵尊」と「六地蔵」が祀られている。江戸後期の造顕で当寺疫病が流行、病気平癒を祈願して建てられたといわれている。参道脇には文化14年(1817)の「双躰地蔵尊」がある。
関東八十八ヵ所霊場 第86番霊場
本尊:不動明王
真言:のうまくさまんだばざらだんせんだまかろしゃだそわたやうんたらたかんまん
御詠歌:のぼりきて ねがうこころは みほとけの こえかともきく まつにふくかぜ
寺伝によると建仁2年(1202)有荘氏(後の本庄氏)により開創された。始め有道宿弥武惟行五世の孫児玉党旗頭、有荘太郎家長の嫡子小太郎頼家が寿永3年(1184)一ノ谷の合戦で戦死した為、その妻が菩提を弔うため京より法印良運和尚を迎えて一寺を建立、有荘寺と号し自らも得度して妙清禅尼となった。これより前、有道惟行は沙門空海巡礼の地、浅見山に一寺を建て阿弥陀如来を安置し西光寺と称していた。延元2年(1338)新田、足利の兵火で焼失、天文6年(1538)北条、上杉の戦国兵乱の時無住となった。荒廃するを惜しみ紀州根来寺より僧頼暁来り、天文24年(1555)西光、有荘の両寺を合併して一寺をなし、西光山無量寿院宥勝寺と改称された。
爾来、末寺数十ヶ寺を有する地方有数の名刹となり、慶安元年(1648)良弁僧都の時、徳川家より御朱印拾石を賜り、寛永3年(1791)御室御所仁和寺直末となり菊花紋章の使用を許されている。現在の本堂は嘉永元年(1848)宥応代に再建されたもの。本尊不動明王は興教大師作と伝えられる秘仏。また西光寺の本尊阿弥陀如来は鎌倉期の作。
山門前に「北向延命地蔵尊」と「六地蔵」が祀られている。江戸後期の造顕で当寺疫病が流行、病気平癒を祈願して建てられたといわれている。参道脇には文化14年(1817)の「双躰地蔵尊」がある。
関東八十八ヵ所霊場 第86番霊場
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