善慶寺(法光山)
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宗派
創建
正応4年(1291年)
新井宿義民六人衆墓
善慶寺(ぜんけいじ)は東京都大田区山王3丁目にある日蓮宗の寺院。法光山(ほうこうざん)と号する。旧本山は品川本光寺、什師法縁。
正応4年(1291年)に新井宿村の住人・増田三郎右衛門の発願により、日法上人により開基された。
旗本の木原氏の領地であった当地・新井宿村は農耕に適さず貧しかった。干魃や多摩川氾濫で限界に達し、1675年12月に村人の代表六名が幕府への直訴のため江戸へ赴いた。しかしあと一歩のところで木原家のものに捕えられ、翌年斬首された。
罪人となった六名の亡骸は新井宿村でも迎え入れる者はなく、彼らの話をする事さえもご法度とされた。残された遺族にも厳しい処遇が待っていた。
その中、当時の善慶寺住職・日応上人が六名の遺体を引き取り、村民・間宮藤八郎が1679年に表向きは自分の父母の墓という形で、密かにこの6人の戒名も書いた墓を建てた。これが「新井宿義民六人衆墓」である。1931年に東京府により旧跡に指定されている。
その後大正時代から「六人衆」と呼ばれるようになり、六人衆の墓は1931年に東京府により旧跡に指定された。1972年に道路拡張により、現在地に移転。
現在では、毎年2月11日に六人衆を弔う法要が行われ、地元の人が中心となって多くの人が参列している。
正応4年(1291年)に新井宿村の住人・増田三郎右衛門の発願により、日法上人により開基された。
旗本の木原氏の領地であった当地・新井宿村は農耕に適さず貧しかった。干魃や多摩川氾濫で限界に達し、1675年12月に村人の代表六名が幕府への直訴のため江戸へ赴いた。しかしあと一歩のところで木原家のものに捕えられ、翌年斬首された。
罪人となった六名の亡骸は新井宿村でも迎え入れる者はなく、彼らの話をする事さえもご法度とされた。残された遺族にも厳しい処遇が待っていた。
その中、当時の善慶寺住職・日応上人が六名の遺体を引き取り、村民・間宮藤八郎が1679年に表向きは自分の父母の墓という形で、密かにこの6人の戒名も書いた墓を建てた。これが「新井宿義民六人衆墓」である。1931年に東京府により旧跡に指定されている。
その後大正時代から「六人衆」と呼ばれるようになり、六人衆の墓は1931年に東京府により旧跡に指定された。1972年に道路拡張により、現在地に移転。
現在では、毎年2月11日に六人衆を弔う法要が行われ、地元の人が中心となって多くの人が参列している。
善慶寺 参拝写真
写真追加更新日:2018年05月10日(オリジナル取材写真)
善慶寺 参拝一言コメント
大森駅西南方向、春日橋交差点北方。年貢減免を幕府に直訴しようとして斬首された新井宿義民六人衆の墓があります。当時罪人の墓を建てられず、表向きは村人の父母の墓とし裏に六人の戒名を刻んだ墓石が残されています。奥はそのまま大森山王熊野神社の参道となっています。夏は境内でホタルが見られるそうです。
地図表示位置は正確ではない場合があります