倶利迦羅不動寺
注目スコア
86
宗派
創建
弘仁三年(812)
倶利迦羅不動寺は石川県河北郡津幡町倶利伽羅リ-2の高野山真言宗寺院。御本尊は倶利伽羅不動明王。
養老二年(718)、中国から渡来したインドの高僧、善無畏三蔵法師が倶利迦羅不動明王の姿を彫刻された尊像を、元正天皇の勅願により奉安された事が始まりと伝えられる。弘仁三年(812)に、弘法大師が諸国を巡る途中で、不動明王を拝され、あまりの有難さに扉を閉められ、本尊と同体の不動尊像を彫り、御前立(おまえだち)の不動尊として奉安された。この時、別当山として長楽寺が開山されたといわれる。
寿永二年(1183)の倶利伽羅源平合戦の際、多くのお堂や寺宝、記録などが焼失したが、源頼朝によって再興された。戦国時代の天正年間(1573〜1592年)には衰退するも、江戸時代の寛永年間(1624〜1644年)に秀雅上人が再興し、さらに加賀藩主前田家の祈願所や参勤交代の休憩所となったことから、寺運が再び隆盛した。
天保七年(1836)に門前の茶屋から出火、山門や不動堂が焼失。再建されないまま明治二年(1869)の明治政府による神仏分離令によって長楽寺は廃され、手向神社となった。その当時の仏像類は、金沢市の宝集寺、小矢部市の医王院、津幡町倉見の専修庵などに譲渡された。
昭和二十四年(1949)、高野山の金山穆韶大僧正の尽力により、長楽寺跡に堂宇が再建され、御本尊さまの御名から倶利迦羅山と号し、不動寺(通称、倶利伽羅不動寺)として復興された。
北陸不動霊場第24番札所
北陸白寿三十三観音霊場第18番札所
北陸三十三ヶ所観音霊場特別番外札所
養老二年(718)、中国から渡来したインドの高僧、善無畏三蔵法師が倶利迦羅不動明王の姿を彫刻された尊像を、元正天皇の勅願により奉安された事が始まりと伝えられる。弘仁三年(812)に、弘法大師が諸国を巡る途中で、不動明王を拝され、あまりの有難さに扉を閉められ、本尊と同体の不動尊像を彫り、御前立(おまえだち)の不動尊として奉安された。この時、別当山として長楽寺が開山されたといわれる。
寿永二年(1183)の倶利伽羅源平合戦の際、多くのお堂や寺宝、記録などが焼失したが、源頼朝によって再興された。戦国時代の天正年間(1573〜1592年)には衰退するも、江戸時代の寛永年間(1624〜1644年)に秀雅上人が再興し、さらに加賀藩主前田家の祈願所や参勤交代の休憩所となったことから、寺運が再び隆盛した。
天保七年(1836)に門前の茶屋から出火、山門や不動堂が焼失。再建されないまま明治二年(1869)の明治政府による神仏分離令によって長楽寺は廃され、手向神社となった。その当時の仏像類は、金沢市の宝集寺、小矢部市の医王院、津幡町倉見の専修庵などに譲渡された。
昭和二十四年(1949)、高野山の金山穆韶大僧正の尽力により、長楽寺跡に堂宇が再建され、御本尊さまの御名から倶利迦羅山と号し、不動寺(通称、倶利伽羅不動寺)として復興された。
北陸不動霊場第24番札所
北陸白寿三十三観音霊場第18番札所
北陸三十三ヶ所観音霊場特別番外札所
地図表示位置は正確ではない場合があります
倶利迦羅不動寺 御朱印画像
河北郡津幡町で人気の寺院
倶利迦羅不動寺 参拝ブログ
直線で約3km、富山石川県境の山の上に倶利迦羅不動寺の本堂があります。 どちらも公共交通機そこは気にしませんでしたが。 御朱印いただいたのですが、写真撮ってないので明日にでもアップします。 あと、お寺さん用に御朱印
直線で約3km、富山石川県境の山の上に倶利迦羅不動寺の本堂があります。 どちらも公共交通機そこは気にしませんでしたが。 御朱印いただいたのですが、写真撮ってないので明日にでもアップします。 あと、お寺さん用に御朱印
腹がいっぱいになり、次はお隣の俱利加羅不動寺へ行きました。 ご本尊は、倶利迦羅不動明王さま。龍の巻きついた宝剣を持つ一度俱利加羅不動寺の方にあいさつをして御朱印をいただきました。俱利加羅不動寺とチャンバリン。 そして、
関連ブログは自動収集しています。必ずしも正確とは限りません。